白薔薇の逢瀬〜Meeting you, in the holy night (with a white rose)4
 

「……なるほど。望美さんは八葉の方々と共に迷宮を探索しておられると。そもそも迷宮とは、いったい何だと望美さんはお考えですか?」
 重衡の当然の問いにも、望美は困惑した表情を返すことしかできない。
「正直言って、よくわからないんです。怨霊も出てくるし、ものすごく広いけれど、どこかで見たような気もするし。とにかく不思議な場所なの。
 でも私たちは、時空の狭間が開かない原因は迷宮にあると思ってます。ううん、今はそれしか手がかりがない状態で。とにかく少しずつ解いていくしかないのかなって……」
 肩を落とす望美を重衡は案じる目で見た。開かない扉、時おり望美の前にだけ姿を現す美貌の青年、青く輝く結晶、広大な庭園……。聞けば聞くほど謎は深まるばかりである。
 もっとくわしいことを知りたかったが、重衡は望美が小さくあくびをしたのに気がついた。壁の時計は、夜明けもほど近い時刻を指している。もう彼女を帰さなければならない。
「申し訳ございません。すっかりお疲れのご様子ですね」
「ううん、平気……」
 望美はあくびをかみころながらもそう言った。本当のところ眠気は強かったが、問われるまま自分が話すばかりで、彼の話をまだほとんど聞いていなかった。
 それでもわかったのは、重衡も望美たちと時を置かずしてあちらの世界から引き寄せられ、だがこちらに着いたのは望美たちが戻ってくるよりしばらく前の日時らしいということ。生きていくための環境こそ整っていたというが、彼がこの世界の生活に慣れるまでは相当大変だったに違いない。たくさん尋ねたいことがあった。一晩の徹夜ぐらい、ふだんなら何ということもないのに……。
 しかしここ何日か、確かに睡眠不足気味かもしれなかった。八葉のみんなとあちこち出かけたり、迷宮を探索して怨霊と戦いもしている。今日は今日で午前中はクリスマスパーティーの準備、午後からは思い切り騒いでいた。重衡がため息と共に告げる。
「そろそろあなたをお帰ししなければ」
「でも……」
 このまま別れたくないという気持ちで彼を見やる。
「そんな目をなさると、本当に帰してさしあげられなくなってしまいますよ?」
 本気とも冗談ともつかぬ口調で言うと、重衡は残念そうに目を伏せた。
「私も一時でもあなたとお別れしたくはありません。けれど他の皆様方に心配をおかけするわけにはいきませんし」 
 一晩を共に過ごして、はたから見れば彼の部屋に泊まったも同様とはいえ、彼女をずっとここに留め置くわけにもいかないだろう。重衡は立ち上がり望美に手を差し出した。
「さあ、家までお送りしましょう」
 呼び寄せたタクシーがマンションの前までやってきた時には、望美は眠りに半分埋もれていた。重衡に手を引かれ車に乗り込んだのもあまり記憶がない。住所を運転手に告げたあと、落ちてくるまぶたに何とか抵抗しようと試みたものの、いいのですよ、起こしてさしあげますからと言う重衡の言葉に気がゆるんだのか、結局彼にもたれかかって眠りこんでしまった。
 重衡は肩にかかる望美の重みと無邪気な寝顔を貴重なものに感じていた。できればわずかな時間も手放したくはなかった。部屋に引き返してしまおうかという考えが何度か頭をよぎり、だが彼は結局それをあきらめた。今後のこともある。無謀なふるまいは今はつつしむべきだろう。
 人気のない時間帯ではあるが、男に送られてきたと万が一にも噂にならないように、望美の家から少々離れた角に車を止めてくれるよう運転手に頼んでおいた。タクシーが止まると、彼は停車したのにも気づかず眠ったままの望美にそっと声をかけた。
「望美さん、着きましたよ」
「うん……?」
 目をしばたたく望美が車から降りるのに手を貸す。あたりはまだ薄暗い。冬の未明の空気は鋭く冷たく、吐く息は白くなるが、それでも昨夜の雪の残りもなく、寒さも多少はやわらいでいるようだ。あたたかな車内と外気の温度差に首をすくめ、それでもぼおっとした顔であたりを見回す望美に重衡は尋ねた。
「ご自宅まで、おひとりでお戻りになれますか?」
 望美はこくこくとうなずき、だが思い出したように言った。
「また会えるよね? しろ……重衡さん」
 重衡を銀と呼びかけた眠たげな声は、やはり彼女が半分眠りの中にあることを示している。しかし見上げてくる瞳や声には彼女自身も気づいていないだろう必死さがあり、重衡は胸をつかれた。
 彼はコートのボタンホールに留められたままだった薔薇を手に取った。薄緑の翳をうっすらと帯びた白い花弁は高貴で、襟に飾られてから何時間も経っているというのに、先ほど摘まれたばかりのようなみずみずしさを保っている。彼はそれを望美の指に持たせた。とろりとしていた瞳が思いがけない驚きに瞠られた。
「綺麗。でも、これ……?」
「私たちがふたたびめぐりあうことができた証に。そしてこの花の色が褪せる前に、またお逢いいたしましょう―――必ずね」
 名残り惜しくはあったが、ずっと立っているわけにもいかない。重衡は望美の額に軽く口づけを落とした。
「さあ、お気をつけて。私はここでお見送りさせていただきますから」
「うん、ありがとう……」
 眠そうなわりに、薔薇を手に歩き出した望美の足取りはなかなかしっかりしている。こちらを何度かふりかえりつつも、迷うことなく一軒の家の前にたどりついた彼女が玄関の門の鍵を開け、無事、中に入ったのを見て重衡は小さく息を吐いた。ここからでは表札の名前は読めないが、あそこは間違いなく彼女の住まいだろう。
 彼はしばらくそこにたたずんでいたが、望美の帰宅に何か騒ぎが起こったようすもないのを確認すると、ようやく踵を返した。彼女の不在に気づいた人間は今のところいないらしい。
 明け方の街を少し歩きたいと思った。周辺の地理に詳しいわけではないが、丘の上に広がる住宅街を下り、明るみを増す空を左手に道に沿って行けば、いずれは海が見えてくるはずだった。
 見上げれば、明け初めの空に星は徐々に光を失いつつある。
 天の御使いが降臨した奇跡の一夜、この夜が終わるまでいい、そのまなざしを彼だけに―――と願った再会の夜は、もうすぐ明ける。
 夜明けはどの世界にも等しく訪れる。だが自分にとって今日の夜明けは、昨日までの夜明けと同じではないと重衡は思った。
 この時空に突然引き寄せられ、困惑しつつも送ってきた日々とは異なる夜明け。彼が元々所属していた世界―――平氏の栄華と凋落を我が身に味わい、そして近年は争乱に気の休まることのなかった世界で迎えてきた幾千の夜明けとも違う。
 自分は何のためにこの地に呼ばれたのか、彼をここに飛ばした力は彼にいったい何をさせようとしているのかとずいぶん考え、迷ってきたが、彼女と会った今は、己が為すべきことがようやくはっきり見えた気がした。
 彼がこの時空にやって来たのは彼女を悩ませている迷宮と無関係ではない。いや、彼がここに降り立った意味は迷宮の中にこそあるに違いないのだ。彼女と八葉が挑みつつある、その謎のうちに。
 ―――怨霊を封じる無二の技と、舞をも思わせる華麗な剣さばきに、味方のみならず敵である平氏からさえ大きな畏敬を集めていた源氏の神子。重衡には彼女の戦う姿を直接見る機会こそなかったが、人々の口の端に上るその名はずいぶんと耳にしていた。時空を超える力すら持つという彼女は、まさに龍神の恩寵を受けた神の申し子なのだろう。
 だが重衡にとって彼女は聖なる神子であるよりまず、月光のもと突然あらわれては消えた可憐な姫、ただ一度のはかない逢瀬で彼の心に強烈な印象を刻みつけてしまった美しく愛らしい女性である。あれから経てきた幾年もの歳月を越えて、刹那の邂逅は変わらぬ鮮明さを彼の中に保ち続けている。
 あの時、彼は恋に落ちた。十六夜の月にしっかと心をつかまれ、その光に永遠に照らされたいと、清雅な輝きをまとう少女をこの手に強く抱き締めたいと、切なる望みを持つようになった。
 そして再会した彼女は、記憶よりももっと彼を魅了し焦がれさせずにはおかない女性になっていた。やわらかく甘い唇はひとたび味わえば二度と忘れられはせず、男としてさらにそれ以上を求める気持ちは止めようがない。
 彼女が立ち向かわねばならない謎なら共に臨み、どのような危難からも彼女を守り抜く、それが彼の願い。ならば手渡した花の芳香が衰えぬうちに、ふたたび彼女に会いに行こう。このめぐりあいを一夜の夢で終わらせはしない。新たな一歩を踏み出す時が来ている。
 もっとも彼女に会うということは、彼女と行動を共にしている八葉の面々にも会うことになるのだろう。和議は成ったとはいえ、先日まで敵だった彼に源氏方の彼らがどのように接するかはさだかではないが、あの時空からの旅人という点では同じ立場だ。還内府や敦盛の顔も見ておきたかった。
 常に彼女のそばにいるという八葉の青年たちには重衡も内心穏やかではいられない気もするが、甘やかな唇を得たのが自分ひとりというならば、彼女の愛は彼らの上にはないと思ってよさそうである。
 だが彼女の心を誰よりも深く占めている人間は、他にいる。
 『銀』―――それは重衡でありながら、重衡ではない存在。彼女は銀との思い出をきちんと思い出せないと気にしていたようだったが、彼女が語った部分だけでも重衡に妬心を持たせるには十分だ。彼女がひとかたならぬ想いを抱く男と思えば、どうしても胸は疼く。銀のことを重衡はもっと知りたかった。知らなければ越えようもないではないか? 
 もっとも銀を知らずとも、彼が望美に寄せた想いの強さならば重衡にも容易に想像できる。なぜならどの時空でも『彼』はあの少女に深く心奪われずにはいられないだろうから。自分が彼女に無性に惹かれているように、銀も心の底から彼女を愛したに違いないのだ。その確信は、焦慮と同時に不思議な共感を重衡の中に呼び起こす……。
(『銀』―――それは別の世界での私の姿だという。私と同じく彼女を愛し、同じく彼女を守りたいと願い……)
 そのために自らの心を失うことになろうとも、銀は為すべきことを為した。同じ立場にあれば、ためらわず重衡もそうするだろう……。
 彼はつと歩みを止め、瞑目した。胸しぼるほどのせつない愛に殉じたもうひとりの自分に向けて……。まぶたを閉じたまま、自らの想いをも確かめるように独りごちる。
「ええ、『私』は必ずあなたをお守りするでしょう。どの時空にあろうとも、どのようにあなたと出会おうとも。この身のすべてを賭けて……」
 だが―――ゆっくりと開かれた紫烟の瞳の奥を、挑むような光がちかりとかすめ、消えた。言葉こそ発せられることはなかったが―――。
(……けれどあなたがその美しいまなざしを向ける相手は、もうこの私だけでいい。他の男にあなたの心の一部なりとも奪わせたままにはしておかない。
 たとえそれが『私』であったとしても……)
 おだやかな外面からは決して見通すことのかなわぬ、深く激しい彼の熱。その熱さをなだめるかのように、夜明けの清涼な風が彼のコートの裾をひるがえして過ぎていく。
 風が軽く乱した髪に手をやり、彼は上空に視線を投げた。整った口元にかすかに笑みが刷かれる。
(自分に嫉妬する私をあなたはお笑いになりますか? ああ、先ほど申し上げたように、それは仕様もないことと承知してはおりますが……。
 それでも私はとても―――とても嫉妬深い男なのですよ―――) 
 彼の視線の先で、夜明けは刻々とその表情を変えてゆく。墨紺の夜の名残りに暁の紅が入り混じった悩ましくもあでやかな東の空の色合いは、それを見つめる青年の瞳の色によく似ていた。
 ……迷宮の奥に何が待っているのかは、まだ彼にもわからない。だが謎を解く旅は、彼女の愛を受くべきただひとりの男が誰であるかを明らかにしていく道程であるにも違いなかった。
「望美さん……」
 愛しむようにその名をひとつつぶやき、彼はふたたび歩き出した。新たな一日の開始を告げる、黄金の朝の光が天空を貫き輝くのも、もうまもなくのことと思われた。

 ―――そう、彼にとって、すべてはこれから始まるのだった。




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